陶芸プロセスを説明するためにはどう伝えたらいいのか?を考えています。プロセスの分解をして細分化し、言語化をしなければ伝わらないと感じています。「思考は現実化する」と言われています。思考を分解して、細分化した思考そのものを言語化する。
言語化する思考は陶芸工程の実技であり、細分化することで手の感覚あるいは記憶又は指触と言った共通の言葉で説明しないと理解してもらえません。
手が思考する最小単位の行動思考を言語化していきます。陶芸プロセスはその組み合わせで出来上がっていると思うんです。
手が思考しています。
金継ぎ仕事が来た
昨日は嬉しいことがありました。以前講習会で金継ぎした方がまた金継ぎの仕事を持ってきてくれました。きちんと食器をいとおしみ使っているようです。微笑ましく思いました。
きちんと使っているようですね。口の形状に特徴がある「芙蓉手山水染付皿」には結構大胆にチップが入っています。これは前回修繕したものです。新たな金継ぎ跡が加わる事になります。
小さな器にチップが入ったものは、パテが噛んでくれるかなぁと思うくらい小さいです。備前風の良い貫禄がある急須は、取っ手がずっしりとくるんですけど、良い握りだと思うんですよね。ちょっと割れがひどいので修繕に時間をかけたいと思ってます。土色グレーは金箔が映えると思います。
サイボーグとして生きる私の手と心
人の心は、まるで小さな種のように静かに芽を出し、書くことや描くことを通して姿を現していく。
文字を書くとき、手は脳からの命令を受けて動き出し、思いを形にしてくれる。絵を描くときも同じだ。脳が「こう表したい」と願えば、手はその意図を汲み取り、線を引き、色を置く。写真を撮るときでさえ、脳が「この瞬間を残したい」と思えば、手は自然とスマホを構え、最適な角度を探してくれる。
ときどき、私は思う。
「手にも思考があるのではないか」と。
脳の命令をただ受け取るだけでなく、手自身が微妙な調整をしながら、私の表現を支えてくれているように感じるのだ。
近年、私たちの脳が表そうとする世界は、ますますデジタル化している。便利になり、できることは増えた。しかし、手が生み出す“微差の表現”は、まだどこか物足りない。だからこそ、物づくりがうまくいったときの達成感は格別だ。
「今日も手がよく働いてくれた」
そんな感謝の気持ちが自然と湧いてくる。
現代の高齢者は、かつてよりも自由に恵まれ、老いを楽しむ余裕さえ持っているように見える。歯が悪くなれば入れ歯があり、目が悪くなればレンズを入れ替えることもできる。身体は少しずつ機械の力を借りながら、まるでサイボーグのように進化していく。
そして私自身もまた、その一人だ。
年齢を重ねながらも、新しい技術を受け入れ、身体をアップデートし、日々の暮らしを楽しんでいる。
「優秀なサイボーグ高齢者」を目指して、今日も私は手と心を働かせながら、創造の世界を歩いている。
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